髙野澄 刊行の記録



『山岡鉄舟・剣禅話』1)(徳間書店・現代人の古典・71年7月)
はじめてぼくの名前が表紙に書かれた。ほぼ同時に楢林忠男君(すなわち小川後楽宗匠)もおなじ徳間書店から『煎茶の世界』を出したので、南座前の中華料理屋でふたりいっしょの出版記念会をひらいていただいた。よく売れ、いまも稼いでくれるありがたい本です。最初の本で「物書き稼業でやっていけるかもしれない」という気になれたのは幸運というべきだろう。
                    ──→たちばな出版

『京都の謎』2)☆(祥伝社・ノンブック・72年5月)
うらわかき渡辺起知夫さんの企画。驚くほど売れました。奈良本先生に「家を買っておけよ」とすすめられたが、欲しい書籍をたっぷり買ったほかは、使いはたした。その後もながいあいだのドル箱。
                    ─→ノン・ポシェット

『忘れられた殉教者』3)☆(小学館・百万人の創造選書・72年5月)
前芝茂人さんから「なにか一冊、書かないか」とお誘いがあり、奈良本先生と三人で協議の結果、「日蓮宗不受不施派のことがよかろう」ということになった。不受不施派のことはなにも知らないから、なにもかも一からはじめる取材だった。時間はたっぷりあったし、取材費は前芝さんが都合をつけてくれたので、ほぼ思うとおりの取材ができた。テーマがよく、時間と費用があればいい本が書けるということの見本みたいなものである。不受不施派のかたがたと仲良くなったのも成功の理由のひとつだ。
                    ─→小学館ライブラリー

『謎の日本海賊』4)☆(祥伝社・ノンブック・72年10月)
瀬戸内海を、島から島へとわたりあるいて取材した。フェリーボートを待つあいだにビールとオデンの食事のくりかえし。宇和島の沖合はるか、日振島まで行った。あのころは朝と夕方の二便しか船が出なかった。
                    ──→ノンポシェット

『天下とるのは一人だけ─信長と九鬼水軍』5)(さ・え・ら書房 73年11月)
はじめて児童書を書いて、やや世界がひろくなった想いがした。伊勢長嶋・尾鷲・答志島などに取材旅行。このころは執筆のスピードがはやく、いくら書いても疲れなかったが、それは才能ではなくて歳のせいだったと、あとでわかる。休日の前日から家族を奈良や京都郊外に泊まりにいかせ、ぼくはひとりで執筆という、贅沢とも貧乏とも、どっちだかわからない状態がしばらくつづい
た。この原稿を書いてすぐ、京都イングリッシュ・センターの修
学旅行に潜りこんでスペインへ──まさに「旗本旅行」を一カ月
やった。帰ってきたら痔がなおっていたので、以来「痔にはスペ
インがよく効くぞ」といいふらす。

『勝 海舟』6)(文芸春秋・73年11月)
スペインへゆくまえにだいたいの資料は読んでいたので、帰ってきてすぐに書きはじめた。体言止めの文章を多く使う工夫をしたつもりだが、効果のほどは疑問である。
                    ─→徳間文庫

『勝 海舟文言抄』7)(徳間書店・現代人の古典・74年3月)
NHKテレビ・ドラマのあやかり企画。海舟の文章については僕の手を入れようがないので、解説に力を入れるしか方法がない。とすると海舟という人物の大要を自分なりに把握しなくてはならないから、結果としての本そのものよりは、調べたり考えたりの副産物の利益がおおきくなる、。そういうことがわかった。

『西郷隆盛語録』8)☆(角川文庫・74年5月)
勝 海舟の『氷川清話』がベストセラーになったから西郷でもう一発という書店側の狙いだった。奄美大島や沖永良部島までいって西郷の流罪跡を観、それから隼人町の日当山温泉に腰をおちつけて書いた。旅館の庭に「西郷ドン、馬つなぎの松」あり。女中さんに薩摩言葉を教えてもらいながら書いた。結果は、柳の下にドジョウは二匹いないという諺を確認することになった次第。日当山温泉は西郷が大久保に敗れたあとで静養した温泉だから、そもそも縁起がよくないのかもしれない。挿画は下村良之介さん。
                ─→『西郷隆盛』(角川選書)

『養生訓入門』9)☆(徳間書店・トクマブックス・74年5月)
貝原益軒というと、『女大学』なんかの影響が強く、封建的でどうにも手におえないやつだという偏見がある。とんでもない、あ
の元禄時代によくもこれほど近代的な人間論が吐けたものだという見解を強調した。自分の健康は自分でつくり、守らなければ駄目なんだという激論につながるわけで、これほどの本がなぜ発禁にならなかったのかと疑問を感じるぐらいなのだ。

『性の日本史─卑弥呼から「女大学」までの女の智恵』10)(徳間書店・トクマブックス・75年7月)
あの高橋徹さんのコレクションのなかから江戸時代の「色の道指南書」を借りだし(これは栗山一夫さんがやってくれた)、セックスを通して見た日本史を書いた。第二章の「おんな・女・オンナ」など、ぼくとしてはおおいに張りきって書いたのですが、どうもパンチが弱かったようです。このころ「潮ふき女史」といわれたひとが大活躍していて、この女史が激論をふるう雑誌に「性科学の専門家」みたいな顔をして登場したこともありました。おなじようなものを「主婦と生活」かなんかに書いた記憶がある。

『敗走──幕末小藩の運命』11)(創世記・77年3月)
結城・津和野・赤穂・郡上八幡・請西などの小藩が、小藩ゆえに直面した幕末期の苦悩を描いたもの。まえから一度は行きたいと思っていた郡上八幡に取材して、はなしには聞いていたがとても手にははいらないだろうと思っていた『心苦雑記─凌霜隊資料』を買えたのは嬉しかった。弱者や敗者への肩入れが強すぎて、自分では出来がよくないと考えているのだが、評判はよかった。
       ─→『敗者は復讐により復活する』(力富書房)

前年から新町通鞍馬口下ルのY氏宅二階に間借りして、ここを仕事場とした。弁当もって下駄ばきで「通勤」するのがフレッシュな感じ。これを機会に仕事の時間を夜型から昼型に転換した。帰宅して夕飯を食べ、ひとねむりしてから最終のバスで酒を呑みに出るという、なんていうか、かなり充実した時代の開始だったと、
いまにして思う。
このころから水泳をはじめた。水泳について、語れば長いはなしを簡単にのべると、十歳のころにウイルス性のリューマチにかかり、生死の境をさまようこと一カ月。当時としては貴重きわまるペニシリンのおかげで一命はとりとめたが、心臓弁膜症と左膝の関節炎が後遺症となり、医者に水泳を禁止された。怨みをいだいて、おとなになり、気がつくと、後遺症はかなり治癒していた。そこで、おそるおそる水泳を再開した。つまりぼくの水泳は子供のころの債権を取り立てているようなものだから容易なことではやめられないのである。

『なさけの系譜』12)(六興出版・77年3月)
物事にたいする考えかたの、ぼくなりの基本をまとめる結果になった。これは料理人の包丁に譬えられると思う。この本を書いてからあと、ぼくの料理は刺身の切りくちを誇るのではなく、捏ねたり刻んだり、焼いたり煮込んだり、アアデモナイコウデモナイ型の、つまり材料の新鮮さに頼るよりは料理に頼る種類ではないかと悟った気になった。悟ったとはいえ、それにこだわらないのは自信に乏しいからだろう。資料をえらび、章と節の概略をつくり、二七六ページを一気に書きあげた。こういう方法で書いたのは、この本が最初の最後。愛着の深い作品である。

『聖──写真でつづる日蓮宗不受不施派抵抗の歴史』13)(国書刊行会・77年4月・写真は岡田明彦君)
東京の若いカメラマンの岡田君が『忘れられた殉教者』を読んで手紙をくれて以来、「アサヒ・グラフ」などに写真と文章をいっしょに乗せていた。
岡山の釈日学上人が一九七六年の正月に亡くなられ、これは二人にとってはおおきなショックだった。岡田君が、日学上人に見てもらおうと張りきっていた写真文集の計画をこの時点で具体化して、ぼくが新しい文章を書くことになった。写真という別のジャンルと同居だから、ぼくの文章は『忘れられた殉教者』にくらべると、いくらか堅い調子になっている。前回には行けなかった対馬へでかけ、日奥上人の流罪跡をみることができたのが収穫。

『適塾と松下村塾』14)☆(祥伝社・ノンブック・77年7月)
NHKテレビドラマ関係だったと記憶する。財産というほどの財産のない親が子供にのこせるの、それはは教育しかない──という線を強調しようとしたが、書いていくうちに、適塾にも松下村塾にも親はまったく顔を出していない、子供が自分で張りきっていたという面が表に出てしまった。それはそれでいいと思うが、最初の狙いからは外れたのだから、失敗といわねばならない。学校否定の姿勢を強調すればよかった。

『呂宋助左衛門』15)(徳間書店・77年10月)
NHKテレビ「黄金の日々」にあやかった出版である。最終校正のときに父が川越の病院で危篤。東京のホテルから「あと十ページやったら行く」なんて電話しながら、ひやひやしていた。初版の帯(腰巻)に、テレビの原作はこれだといわんばかりの文句が書かれたので、本物の原作者から抗議が出た。版元の責任とはいえ、ぼくもヒヤリ。しかし、売れました。

『松浦静山・甲子夜話』16)(徳間書店・現代人の古典・78年4月)
あの膨大なる『甲子夜話』を全部読んだのが副産物となった。このあたりで疲れが出たのか、読書家という職業──本を読むだけでオカネがもらえる──が成立しないものかな、なんて馬鹿なことをしきりに思っていた。

『権力を握った女──北条政子・日野富子・淀君・春日局』17)(主婦の友社・78年11月)
タイトル──四人の女──主婦の友社という取りあわせがなんともおかしい。おかしいなんていってはいられないが、おかしい。まるっきりデタラメじゃないの! という声がきこえてくる感じなのである。ぼくとしては春日局にちからがはいった。
                    ─→『春日局と歴史を変えた女たち』(ノンポシェット)

『怒涛の時代』18)(徳間書店・79年10月)
幕末動乱の諸相を、もっぱら徳川側に視点をおいて書いたもの。中島三郎助という与力が函館戦争で、死ぬとわかりきっている戦場に出ていくところを書いていたから涙が出てきて止まらなくなり、呆れた。売れなかったが、これもなかなか愛着は深い。
この年の春、「歴史と文学訪中団」に参加して二週間の中国旅行。
おなじころ、日本文芸家協会に加入。

『賄賂の歴史』19)(日本書籍・79年12月)
暗殺・人質・賄賂の三案をしめされたとき、とっさに賄賂を選んだのはなぜなのか、いまもわからない。面白そうな予感がしたのだろう。書いているうちから、これは面白いぞと思ったから、まずは成功。こういうものは「面白い」と思わないと書けない。たしかこのころは雑誌「歴史と文学」の黄色ページを担当していて、オモシロオカシイ傾向ばかりを狙っていた。
その反動があったのか、この『賄賂の歴史』は堅実な調子で書いている。この年の冬(?)、仕事場を北区宮東町に移転。それまでのY氏宅から歩いて三分ほどのところ。平屋の長屋の一軒をさらに二分割した気楽な家だ。
ひさしぶりに地面に住んだので、冬の寒さはこたえた。やはり住まいは高層アパートの八階にかぎると、つくづく思った。八階ということで書いておくと、ぼくは俳句はやらないが俳号は持っている。いわく「空八楼」──クウパチロウと読んでください。

『歴史に学ぶ老いの智恵』20)(ミネルヴァ書房・80年6月)
社長の杉田信夫氏がひとりで編集製作するOP選書の一冊。OPとはOld・PersonあるいはOld・Peopleの略号だろう。このときぼくは四二歳、正直なところ、老人のことはわからない。歴史における老人の位置といった次元に問題を移して書いた。老いに苦しむ老人に読んでもらえるものにはならなかった。まさに隔靴掻痒の思いである。
文字が下手なことは我が百万の悩みのうちのひとつであるが、この本の原稿ときたら、アレッ、これが俺の字か? と我が目を疑うほどに美しく、かつ実用的だった。さては我が世の春かと喜んだのも束のま、近視と乱視、
それに老眼のまざり具合がほんの一瞬の微妙な状態を呈していたにすぎなかったのである。

『変わり者の日本史』21)(廣済堂出版・80年7月)
辻 潤・織田信長・桐生悠々・平賀源内・宮崎滔天の五人を「わが愛する変わり者」に選んだ。辻 潤がいちばん評判がよかったのは、いささか自負していたとはいえ、やはり嬉しい。五人全部が好評となればいいわけだが、世のなか、そう甘くはない。大学の卒業論文の「幸徳秋水」、大学院の修士論文「大杉栄」とあわせて近代思想三部作と自称している次第。八人のうち自分にもっともちかいのはもちろん辻 潤だ。他人のような気がしない。

『学校で教えられなかった明治以後の歴史』22)(日本実業出版・80年9月)
それほど激烈なことを書いたつもりはないのだが、神奈川県に本拠のある某右翼団体から「不敬にわたる疑いあり。審査をするから出頭すべし」の通知をいただいた。世相史の部分はおもしろく書けたと思う。

『読める年表─昭和篇』23)(自由国民社・81年7月)
新聞の縮刷版とニラメッコしたので、老眼鏡がはやくも二代目になる。金大中事件がよくわからないので、これはいったいどういうわけなりやと悩んだが、あのときはスペインに行っていたためだと判明、ホッとした。

『読める年表──江戸篇(1)』24)(自由国民社・82年11月)
よく知っているつもりの慶長時代のことが、じつはよくわかっていないのだということがわかった。たとえば伏見城の性質、など。

『銭神はかく語りき』25)(力富書房・83年8月)
学校の助手をやっていたころ親しかった学生が祇園で「H──」というバーをやっていた。相客の溝口利煕氏から、「月刊パーソナルローン」なるサラリーマン金融会社のPR誌に「利息をテーマにした歴史物語を書かないか」と勧められた。なかなか高額の原稿料で、たしか二十回の連載。こういうことがあるから酒は呑まねばならないのである。

『豊臣秀吉』26)(さ・え・ら書房 83年 月)
少年少女伝記読物(全十五巻)の一冊。このシリーズが第三十回サンケイ児童出版文学賞に推薦され、賞状と楯をいただいた。
この本を最後に宮東町の仕事場をひきはらい、西陣アパートにもどってきた。

『徳川家康』27)(学研・84年9月)
児童むけ絵入り伝記シリーズの一冊。『天下とるのは一人だけ』と『豊臣秀吉』、そしてこの『徳川家康』をまとめて児童物三部作と自称する。信長・秀吉・家康とつづいたのは、偶然とはいいながら、面白い。

『「葉隠」にみる処世決断』28)☆(徳間書店・86年11月)
「葉隠」は慎重にあつかわないと危険な書物だ。その点に留意しつつ、現代サラリーマンの処世決断にあたって勇気が出るような書きかたをしてみた。サラリーマンならざるぼくが「処世決断における勇気」なんていうことを書くのは傲慢になるおそれはあるが、そこは「読んでもらえばわかる」というしかない。ひさしぶりの書きおろし単行本だからなかなか調子に乗らず、新書版のわりには時間がかかった。
これが手書原稿による最後の本になった。四月のおわりにワープロを買い入れ、練習を二日やって、三日めから営業用の原稿作成開始。最初の原稿は雑誌「月刊・自治研」に連載していた「自治─諸相と変遷」で、ページの区切りかたを知らないうちは十行とか五行とか、ぶつぎりの原稿をつくって糊でつないでいた。まさにハサミとノリでつくった原稿。すぐに慣れ、
この連載の最終回まで書いておく余裕たっぷりの態勢になった。
              ─→『「葉隠」にみる処世決断』(徳間文庫)

『西郷隆盛よ、江戸を焼くな』29)(読売新聞社・86年12月)
桂川ミネに捧げるファンレター。構想は久しい以前から出来ていた。背景の準備をしてただちに書きはじめ、一日八ページのペースですすんだ(一頁は四四字・一八行)。午後四時になるとホテルのプールで泳ぐ、まさに快適なる毎日のなかで出来あがったのがこの本だ。そのせいか、春風駘蕩の雰囲気が濃厚。
後日、ミネの孫の今泉純一さんから電話をいただき、「中学一年まで可愛がってもらった祖母のことがなつかしく思いだされ、ほ
んとに嬉しかった、云々」。これぞ物書き冥利。

『名セリフ日本史』30)(駸々堂・87年3月 左方郁子・百瀬明治氏との共著)
僕の担当は江戸時代。「住居の修繕はいいかげんにやるべし」など、それほど有名ではないセリフをいくつか入れた。ぜひ有名になってほしい願望がこもっているわけだ。『西郷よ─』の途中で書いた。
          ─→河出文庫

『できごと日本史』31(駸々堂・87年3月 左方郁子・百瀬明治氏との共著)
僕の担当は一月から四月まで。取りあげたい事件が重なる日がおおいかと思うと、たいしたことのない日があったりで、事件の選択に意外にてこずった。
このころ、小川後楽宗匠とふたりで2週間の中国茶史取材旅行。後楽宗匠のお供だが、宗匠は中国語ペラペラだから、どっちがお供だかわからなくなる変な関係。普陀落山で観音の聖地とはこのようなものかと実感したのが、あとあとまでの財産。
          ×   ×   ×

(『法皇の密使──夢譚・梁塵秘抄』脱稿ちかし)
後白河法皇の密使が昭和の東京に現れた。声のいい女の子がつぎつぎと行方不明になる。攫われた女の子は平安時代の青墓で傀儡として訓練され、密使とともに東京に潜入する。一方、法皇に職を奪われた楽人の山階逸男は、源頼朝をそそのかして平家打倒に立ちあがらせ、怨みかさなる法皇の背後勢力を削ごうと伊豆にゆくが、箱根の関所で道をまちがえ、かつはマッチのラベルに描かれたデンチクの絵に心ひかれて浅草のカフェー黒龍江に姿を現した。このカフェー黒龍江こそは法皇の密使の拠点なのだ。あやうし、法皇の密使!──といったような物語を書いております。青墓─アオハカという地名の面白さ、この一点だけにひかれて構想がふくらんだもの。歌舞音曲が大好きという、ぼくの知られざる一面をお目にかけたいと考えております。

(『胚芽米を食う立場』仮題)
 三月から書きはじめます。白米は好きでない、といって玄米も苦手の僕はながいあいだ胚芽米を主食にしている。つまりこれは中庸の立場であり、「中庸は徳の至れるものなり」をしらずしらず実践していたことになる。そうと気がついたとき、子供のころ「麦飯をくわせろ」とダダをこねたのを思い出した。白米拒否は先天性のものか、と興味が湧き、日本史のコメ信仰を考えてみたいという猛烈な欲がおこってきた。僕自身の「食」の体験とコメの問題とを重ねながら書いてみたい。一種の「自分史」ではありますが、グルメブームとは関係ありません。
          ×   ×   ×
以上が『感謝のしるし』の第一版です。
前記の『西郷隆盛よ……』が出たあと、奈良本先生の呼びかけで出版祝賀会をひらいていただいた。下鴨茶寮で40人もの多数の方にあつまっていだき、『感謝のしるし』として小冊子を諸氏にお配りした。この時点では『名セリフ日本史』『できごと日本史』は刊行予定、『法皇の密使』『胚芽米を食う立場』は執筆構想の段階であった。
          ×   ×   ×

『胚芽米読本──白米信仰と日本人』32(論創社・88年3月)
『出版ニューズ』からお誘いがあった、「出したい本・書きたい本」という文章をかかないか、と。それで『法皇の密使』と『胚芽米を食う立場』のプランを書いたら(87年3月中旬号)、論創社の森下紀夫社長の目にとまり、『胚芽米を食う立場』について照会があった。四分の一ほど書いてあったのをお見せすると、うちで出そうということになり、九月には脱稿した。フィロッピーデスクを送ると、あっというまに初校ゲラがもどってくる、はじめての体験をした。

『貴族になってみないか』33(さ・え・ら書房 88~9年)
児童むけの絵入り読み物で日本史の通史を書いてほしいという注文で、ぼくとしてはライフ・ワークみたいなものになる予感があっておおいに張りきって原稿を書いたのだが、途中から「漫画にします」ということで、ぼくは原作者になり、拍子がぬけた。30冊ぐらいのシリーズにするつもりが、
この33をふくめた七冊で中断になった。
『海賊の表と裏』34
『足軽は戦いのプロ』35
『一揆いろいろ』36
『殿さまも楽じゃない』37
『代官のうつりかわり』38
『幕府ってどういうもの』39
『織田信長おもしろ事典』40(新人物往来社・88年12月)
なんといっても信長は最高! 暑い夏のあいだ、「桃色吐息」など高橋真梨子のテープをかけっぱなしで暑気ばらいにしながら書いた。彼女には感謝しなければいけないな。
 このころからプールを自宅ちかくの「星の子スイミングクラブ」に変更。自転車で五分、気楽に泳げるようになったのが何より。

『京都・伝説とお伽噺の謎』41(天山文庫・89年10月)
書き下ろしの文庫のはじめての体験。「一寸法師」「小野小町」などの伝説やお伽噺をぼくなりに新しく解釈して、ああでもないこうでもないと、理屈をひねってみた。こういう方法は依然として好きである。
                         ─→京都新聞社

『戦国武将・一日一訓』42(PHP研究所・89年10月)
こういうものを、いつか書いてみたいとおもっていた。おもっていると、注文がくる。ありがたいことです。

『板垣退助』43(PHP研究所・90年1月)
五〇のエピソードでつづる伝記という企画。ひさしぶりに土佐の高知に取材旅行をした。高知の町にはちゃんとした古本屋が一軒もないらしいのには、びっくり。電話帳には「古本屋」が出ているのだが、行ってみると、たいていはコミックの古本屋だった。高知といえば坂本龍馬、「龍馬饅頭」はあるが、「退助饅頭」なんていうのはないのを知った。

『二一世紀の西郷隆盛』44(徳間ブックス・90年3月)
NHKテレビ「翔ぶがごとく」のあやかり企画。「思いっきり思い入れを入れて」という注文だったが、ちょっとオーバーペースになったみたい。
朝日カルチャーセンター京都で「知られざる京都」のクラスをはじめた。クラスの講話と現地見学を組みあわせるシステム。第一回は「法華宗の隆盛」のテーマで京都地方貯金局の擁翠園(後藤家の庭園)を拝見した。三回のワンクールで終わるものと思っていたら、このつぎ、このつぎと続いてきて百回をこえ、まだ続きそうな気配。しゃべるのは大好きだから、こうなったら身体がつづくかぎりやろうかなと、ささやかな決意。

『栄西』45(淡交社・90年7月)
「京都─宗祖の旅」シリーズの一冊。あらためて、禅宗というのはむずかしいものだとわかった。しかし、日本の宗教のうちで自分に合っているのは禅宗ではないか、という思いは強まった。

『伝・宮崎滔天──日中の懸橋』46(徳間文庫・90年10月)
愛読書の一冊、『三十三年の夢』を読者といっしょに読みましょうといった姿勢の書き下ろし企画。とにかくこの本は、全ページを暗唱できるぐらいに何度も何度も通読しているので、まるで自分が滔天になりかわったみたいな気分で執筆した。著述業者として、こういう態度がいいのか悪いのか、問題ではあると心得てはいます。だいたい書いたところで天安門事件がおこったのには、ほんとうにびっくりした。青色が基調の装丁は嬉しかった。

『京都の謎・伝説篇』47(祥伝社・ノンポシェット・91年4月)
文覚の墓まで行ってやろうと神護寺の裏山をのぼりはじめたのはいいが、途中で疲れ、断念。京都に三十年以上も住んで、神護寺への参詣(見物)ははじめてのこと。

『京都の謎・戦国篇』48(祥伝社・ノンポシェット・91年10月)
二条通と高瀬川との関係を「戦国京都のL字形メインルート」と把握したのはわれながら上出来だとおもう。このあたりで 『京都の謎』シリーズを『幕末維新篇』『平安篇』と書き継いで全五冊とすることをきめた。

『大杉 栄』49(清水書院・91年11月)
書店との約束どおり原稿は一九八九年末に出来上がったのだが、出版が遅れにおくれて三年がかりになったのには驚いた。テーマが大杉ときては興奮しないわけにはいかず、抑えるのが一番の苦労。

『宣教師が見た織田信長』50(徳間文庫・92年1月)
ルイス・フロイス『日本史』は何度も読んだつもりだが、これを下敷きに一冊の本を書きおろす立場であらためて読んでみると、読み落とし箇所の多いことに気づいた。三〇〇枚ほど書いたところで杭州大学の「漢籍の海外影響」シンポジウムに参加。ぼくは「文天祥『正気の歌』と日本の詩吟の歴史」なるタイトルで分科会報告。オブザーバーの気分での参加だったが、学会の雰囲気はひさしぶり、やはりぼくには似合わないと悟る。
付録の行事の銭塘江の海嘯のものすごい光景に堪能。西湖のほとり、かねて念願の秋瑾女史の銅像を観て、満足。
50冊目になったということで、またまた奈良本先生の呼掛けで祝いの会をひらいていただいた。

『京都の謎・幕末維新編』51(祥伝社・ノンポシェット・92年4月)
新選組別働隊の伊東甲子太郎グループの足跡に興味が出てきた。「場違い」
という表現がピッタリの、哀れな感じが濃厚。

『遠くて重い道─徳川家康』52(廣済堂・92年9月)
歴史雑誌などに掲載した戦国時代関係の短文を細谷敏雄さんがあつめて一冊に仕上げてくれました。家康の経済感覚について書いた文章を読みかえして、「われながら、まずまずのレベルでやってるね」と思ってしまう。こういうところがよくない。

『伊勢神宮の謎』53(祥伝社・ノンポシェット・92年10月)
斎宮と在原業平のことを書くうちに、大淀海岸に「なりひら保育園」があるのを発見。興奮しつつも、半信半疑、カメラ取材に同行したら、ほんとうに、あったのです!

『歴史人物ここだけのはなし』54(PHP研究所・92年12月)
こぼればなしの一冊。こういうものは、構想しているあいだは楽しいが、いざ一冊を書くとなると四苦八苦する。書いたあと、スーッと忘れてしまうのは、どういうわけなんだろう?

『琉球紀行』55(徳間文庫・93年2月)
はじめての沖縄旅行が取材旅行になった。沖縄というところは仕事と関係なしで行って面白いのだということがわかったのは、皮肉々々。食堂で昼飯をいただいていて、沖縄の歴史の問題は昆布であるなと、直感した。

『上杉鷹山の指導力』56(PHP研究所・93年4月)
鷹山というひとは、なつかしい感じがする。じっさいに、こういうひとの側に居ると息苦しくて仕方がないだろうが、それはそれとすれば、なつかしい。こういうタイプの人間になるのを、だれもかれも目指しているからだろうか。武士だけのはなしにしておいてほしい、庶民にふっかけられては困りますよ、といいたい気持ちもある。
      ─→PHP文庫

『龍馬海援隊──夢と志』57(経営書院・93年11月)
こまかい部分を突っ込んで書いていると、わからなくなる、そういうところが龍馬にはある。仲間を信頼したいとは思うが、付き合っているうちにイヤな思いが優先してきて、われながら処置に困る、そういうのが龍馬の付き合いの根本にある。

『大江戸・侍おもしろ顛末記』58(勁文書房・93年11月)
77年ごろ、武士道をテーマの大規模企画に参加し、江戸時代の資料をたっぷりと買い込んで読んだ。武士道の企画のほうはオジャンになったが、読み込んだノートがのこっていたので、面白いのをひっぱりだして一気に書き上げた。武士なんかやめたいというひとは、あんまりいない。それが面白い。

『大石内蔵助の謎』59(毎日μブックス・93年12月)
大石よりも、論争相手の堀部安兵衛が面白かった。刀の魅惑にとりつかれてしまっている印象。大石はただ単純に武士として生きたかったのだということを、もっと力説すべきであった。

『炎の女──日野富子』60(徳間文庫・94年1月)
フィクションのスタイルで書いてみた。知識のないところをフィクションのスタイルで補うのはズルイわけだが、ズルくても面白ければいいじゃないかとうそぶくあたり、われながら年功を積んでズルクなったものだと、感心するやら、忸怩たるものを思ったり……

『細川護煕家の謎』61(徳間書店・94年3月)
ニュースタイルの首相誕生にあやかろうというわけだったが、心配していたとおり、短期の首相に終わってしまったから、これをふくめて、類書の売れ行きは悲惨であったはず。そうとわかっていれば書き方に思いきった工夫もあったのに、と、先に立たない後悔しきり。

『徳川吉宗の謎』62(毎日新聞社・94年10月)
名将軍の名をほしいままにしている吉宗だが、裏側は辛い毎日だったようだ。経済がうまくゆくと、利益はみんな商人に取られてしまう。だからといって、経済なんか武士の手を出すべきものではないと、知らん顔をしていられないのが不幸だ。

『江戸の笑い話』63(人文書院・95年2月)
高野澄という名の人間が著述業をやっていたしるしとしてはこれ一冊があればいいと、書き上げたときは思ったものだが、そのあとから、すぐに不満が出てくる。不満が出るうちがハナなんでしょう。

『実説・水戸黄門』64(毎日新聞社・95年5月)
徳川御三家のうち、水戸だけが「一国一城の主」ではないのだと気がついたが、だれでも知っているはずの簡単なことを遅ればせに知ったにすぎない。しかし、まあ、焦っても仕方がないわけだから、気がついただけでもよしとする。水戸は依然として問題の存在だ。〈水戸学〉の魔力が消えたわけではない。

『文学でめぐる京都』65(岩波ジュニア新書・95年8月)
格別の企画でもない、つまり平凡な構成だが、それを丹念に書いたのが好評の原因なのだろう。書いているあいだの静かな興奮というものは特筆大書の価値があった。平凡の価値というものを痛感。挿入写真を自分で撮ったのがささやかな自慢。鞍馬山から貴船のルートを撮影で縦走し、足の爪を痛め、どうやら終生の傷になりそうな気配。足の爪を切るたびに鞍馬山やカメラのことを思いだす。
九月の何日だったか、日比谷の「シャンテ・シネ」でヴィム・ヴェンダースの「リスボン物語」を観て、マドレデウスの音楽の虜になった。最初のギターの「トトーン」で「ああッ、やられるぞッ」と甘美かつ衝撃的な天啓、そのつぎにテレサの歌声で発熱状態になったまま、もどらない。快調な気分ですごしていた時期なので、調子に乗っている隙間に〈攻めこまれた〉感じ。

『秀吉の大いなる疑問』66(毎日新聞社・95年10月)
だんだん秀吉が好きになってきた。専制権力者を、かくも簡単に好きになってはいけないわけだが、「それとこれとは別」という文句を使いたくなる気分が濃厚。あえて弁明すれば、権力者に成り上がったのではなく、権力者のレベルを自分のレベルに引き下げた、それが秀吉だと考えると、親近感が涌いてくる。
四月九日、大阪のフェスティバルホールでマドレデウスのコンサート。出るんじゃないかなと恐れていた涙がどんどん出てきた。嬉し涙にかきくれ、
身動きもせずに坐って聴いていた「1階D列8番」のチケットはぼくの宝物。
96年の一月から朝日カルチャーセンター京都「知られざる京都」のBクラスと神戸クラスがはじまり、四月から読売文化センター高槻クラスがはじまった。後発三クラスは京都Aクラスのスケジュールを追いかけるかたちで進行するが、Aクラスでうまくいかなかったテーマは省略して進行してゆく。

『江戸の天狗騒動』67(読売新聞社・96年9月)
ほとんど無視され、関係諸氏に迷惑をかけた。だが、われながら「出来」は悪くない自信がある。

『毛利元就の野望』68(毎日新聞社・96年10月)
何年かまえ、これという計画もなしに『陰徳太平記』を買っておいたのが役に立つことになった。毛利のことを、これだけまとめて書いたのは72年の『謎の日本海賊』以来のこと、めずらしい。

『安藤昌益と「ギャートルズ」』69(舞字社・96年11月)
いくら書いても飽きない経験をした。テーマとして、こんなに楽しいものは滅多にないだろう。しかし、昌益という人格についてはすくなからざる疑問が出てきた。文章が下手であるのに、そのことに気づかないか、気づかないふりをしているのか、ともかくそれが、よろしくない。いい文章と引換えなら二年か三年ぐらいは寿命が縮まってもかまわない──ただし七十五歳をすぎてから──と覚悟している身としては、こういう悪文を読むと、裏切られる気分になるのです。
それにくらべて、ギャートルズの格好の良さったら! 面識はなかったが、
ながいあいだの憧憬のひとだった園山俊二を追悼する気分でひとり芝居をぶったつもり。
同居17年の雌猫「オッポちゃん」が衰弱死。二週間ばかり意気消沈していた。いまでも──2005年──目がさめると、「オッポちゃーん、今日は雨らしいね!」なんて朝の挨拶をする。

『烈公・水戸斉昭』70(毎日新聞社・97年5月)
三十年前に読みかけて読みきれなかった『新・伊勢物語』を読みあげてしまいたいという義務感に突如として襲われ、ついでに斉昭の一生を書くことになった次第。先祖の黄門光圀を大いに顕彰して、黄門との二人三脚で幕末政局を引きずってやろうというのが烈公の狙いであった──という趣旨を展開するには『水戸黄門漫遊記』の作者や演出、興行関係者をしらべる必要があったが、そこまでは充分な手がまわらなかったのが悔しい。書き直しの誘惑を感じる数冊のうちの一冊。

『名前おもしろ話』71(淡交社・97年7月)
むかしから、ノミナリズムという言葉に惹かれるものがあった。ものごとの名前について、ああでもない、こうでもないと理屈をこねるのがノミナリズムだろうと理解しているのが誤解の元かもしれないが、理屈をこねるのは面白い。面白いことには何か意味があるのだろうと思っている。

『徳川慶喜──近代日本の演出者』72(NHKブックス・97年9月)
70冊めの『斉昭』の刊行まぢか、翌年のNHK大河ドラマの主人公が息子の「慶喜」と発表。予想しなかったわけではないが、ズバリと当たったのにはいささか驚愕。豊臣秀吉を慶喜にかさねて〈太政大臣徳川慶喜〉のイメージを追いながら書いた。

『徳川慶喜評判記』73(徳間文庫・97年12月)
徳川に肩入れして、どんどん深みにはまってゆくレオン・ロッシュを書いてみたいと、まえから思っていたのが実現。渋沢栄一はわが故郷の埼玉県が産んだ数少ない〈偉人〉のひとりだから、子供のころから〈渋沢さんのように……〉という目標みたいなものが植えつけられていた。その渋沢のことをぼくの名前で書いた本が本屋さんにならぶ。ぼくは〈渋沢さんのように……〉は、なれなかった。
六月一日、渋谷のオーチャードホールでマドレデウスのコンサート。去年の暮れにチケットを買ってからこの日まで、どんなに長かったか! 終わってからガックリとなり、生きる気力がなくなる──ということがないのはトシの賜物らしい。簡単な『日葡辞典』を買ってきて、マドレデウスの歌詞を訳しはじめる。
六月からプールを新町今出川の「ぺアーレ京都」に変えた。

『今昔京都ふしぎ紀行』74(京都新聞社・98年7月)
高校生か中学生の「京都修学旅行感想文集」といったものがかならずあるにちがいないと見当をつけ、さがしはじめて二週間、東京の早実高校の京都旅行報告文集『京都教室』を発見。これで仕事の八割方は済んでしまった。自分が面白いんだから読者にも面白いはずだとキメてかかったのが成功したのか、どうかはともかく、早実高校の『京都教室』は傑作。若いひとがこういうセンスで京都をうけとめてくれるうちは、修学旅行の数が減ってきている、なんて嘆くのは意味がないんじゃないか。

『熊野三山・七つの謎』75(祥伝社・ノン・ポシェット 98年10月)
神話や神道のことを書くときには神様の名前や性格をおぼえなくてはならないのが頭痛の種。記憶力のレベルが低いと自己認識しているのが自信。ところが、熊野の神は、はじめのうちは名前がなく、ただ「熊野に座す神」とだけ呼んでいたらしいのを知って大感激。とたんに沸きあがった親近感で書きあげた一冊。発心門王子から本宮の大斎原まで歩いてみて、熊野古道が素晴らしい設計思想に支えられているのを実感した。
          ×   ×   ×
 ここまでを『感謝のしるし』(第2版)として、1998年11月の「文運 隆々・高野澄」の会にご来臨いただいたみなさまにおくばりしました。
   ×   ×   ×

『忠臣蔵とは何だろうか』76(NHKブックス・98年12月)
赤穂市から発行されつつあった資料集『忠臣蔵』が決定版になるらしいとの予感があったので、購入かたがた、はじめて赤穂へ行った。猛烈に暑かった記憶が消えない。歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』の通し狂言をたっぷりと観劇、あとから、首っぴきで脚本と照合しては、「なるほど、こういう具合になっているのか」と興奮して納得するのが楽しかった。山科閑居の場、大星由良之助と瀕死の加古川本蔵と浄瑠璃の掛け合い──「計略といい、義心といい、かほどの家来を持ちながら、了簡もあるべきに」「浅きたくみの塩冶殿」が全篇をつらぬく真骨頂だろう。

『井伊直政』77(PHP文庫・99年12月)
彦根の竜潭寺(井伊家の菩提寺)が、じつは 遠江の井伊谷から移されたものだとは知らなかった。迂闊なことだが、井伊谷へ行ってはじめて知ったのはよしとしなければならない。目の前にとつぜん現れる井伊谷の竜潭寺は、まさに巨刹。こういう発見があるのだから、チャンスがあるかぎり取材旅行はやるべきなのだ。

『麒麟、蹄を研ぐ』78(NHK出版・00年1月)
徳川三代の奮闘を、ほぼ資料のとおりに辿って書いた。「これを書かずにはおられないぞ」という場面の連続である、取捨選択の決断をくだすのがおそろしいばかりに、かえってダラダラとした調子になってしまった。

『日蓮』79(PHP文庫・00年12月)
小湊の誕生寺には行ったことがある。印象取材は何度やっても無駄にはならないから、またまた行った。千葉に住む菅間五郎くんに、「そちらへゆくよ、逢いたいな」と連絡すると、「今度は日蓮かな?」と。鎌倉にも行った。鎌倉ゆきは何度目になるのかわからないが、ゆくたびに新発見がある。

『物語 廃藩置県』80(新人物往来社・01年3月)
佐藤 實さんのお勧めで、「歴史読本」に連載したのが単行本になった。連載をはじめるとき、藩の選択の基準をどうするかで迷った。とどのつまりは、ぼくの好みでゆくほかはないだろうと平凡至極な結論になり、母校の所在地の川越藩を書くときには余計なちからがはいってしまうといったような、不思議な気分の展開になった。

『北条時宗と鎌倉幕府』81(勁文社・01年5月)
苦手なのに、お誘いがあると断れないテーマとわかっている。なぜ断れないのかというと、この時代の基本資料の『吾妻鑑』が大好きだからだ。頼朝と会見して出てきた西行法師が、幕府の門前にいた子供──だったかな──に、頼朝から拝領したばかりの銀づくりの猫を「はいよ」とあげてしまう。この場面が、どういう次第であるのか、好きでたまらない。

『歴史の京 洛東を歩く』82(淡交社・10年9月 写真・永野一晃)
名所旧蹟の写真があって、ぼくが文章をつける──新奇な企画というわけではないけれども、ぼくとしては溢れんばかりの魅力を感じる。おなじ場、
おなじ遺跡でも、そのたびに印象が異なってくる。ぼくのようなタイプの物書きにとっては永遠のテーマなのだ。洛東篇では東福寺の項目にちからがはいった。何十回もとりくんできたテーマだが、いつも新鮮な想いがわくのは、どういう理由なんだろう?

『「もしも──」の日本戦国史』83(KKベストセラーズ・01年10月)
ずいぶん前に原稿はできていた。初校ゲラをみたとき、「もしもあのとき──」といった逆転発想の記述は苦手なんだという事実を悟った。面白く書いて読者に楽しんでもらおうという姿勢が表に出過ぎるのだ。

『歴史の京 洛北を歩く』84(淡交社・01年11月 写真・橋本健次)
北白川天神宮に強く惹かれた。本殿の横の「伊勢参宮記念の碑」の印象が特に強い。この地の伊勢講の面々があつまって伊勢参宮の道中安全を祈り、
無事にもどってきて、感謝のしるしとして碑をたてた。そのいきさつが手にとるようにわかる。

『歴史の京 洛西を歩く』85(淡交社・01年12月 写真・橋本健次)
大覚寺の名古曽の滝──由緒因縁を語りはじめると、いつになっても終わらないというところが、近年ますます嵩じてきた。滝は絶えている、もはや流れていない現実が、「もう手遅れなんだ!」といった焦燥の想いを熱くするわけだろう。

『歴史の京 洛中を歩く』86(淡交社・01年12月 写真・溝縁ひろし)
大徳寺の塔頭のひとつ、高桐院はぼくにとって「未練」の同義語である。興津弥五右衛門の墓があるとわかっている、門前の案内板にもそのことが明記されている。だが、拝観料を払うだけの手続きでは、興津の墓にお参りはできない。三度か四度はこころみた経験があるが、そのたびに果たせず、悔しい想いをした。

『山本権兵衛』87(PHP文庫・01年12月)
なつかしい鹿児島、なつかしい南洲墓地──ゆくたびに鹿児島の相貌は激変している。それでも変わらないのが、まさに鹿児島の懐旧。市内循環バスの一日カード、数字をゴシゴシと擦って使用の日付けを確定する楽しい方式、いまでもやっているか?
水泳プールに通うのをやめた。肌にちょっとでも傷があるのをそのままプールにはいるとカブレて、化膿することもあるのに気づいた。プールの水と肌の質が合わないのだろう。そのかわりというわけでもないが、部屋で仰向いてペダルを漕ぐ自転車──とはいわないようだが──を買って、グルグルやりはじめた。ばかばかしいのが気に入っている。あわせて腹筋強化のトレーニングもはじめた。腹の脂肪が減るほど強くはやらないが、胃腸の調子が良くなったのは顕著である。胃腸は筋肉の最たるもののはずだから、効果はあるにちがいない。

『歴史の京 洛南を歩く』88(淡交社・02年2月 写真・永野一晃)
はじめて浄瑠璃寺へ行った。そして圧倒された、九体阿弥陀像の偉容と吉祥天女の優美に。

『藤堂高虎』89(学研M文庫・02年3月)
高虎が築城した伊賀の上野と伊勢の津は、つまりは木津川の恩恵による。『歴史の京都 洛南を歩く』で木津川の北辺を歩いて回ったのにつづいて今度は上野を丹念に観てまわった。そして、木津川が伊勢湾と大阪湾をつないでいるのだという事実をわが目で確認した。仰天という言葉がふさわしい発見だった。家康が高虎を上野と津に配したのは木津川を守備させ、伊勢湾と大阪湾の遮断を確実にするためだったのだ。NHKの大型時代ドラマに「藤堂高虎」をとりあげてもらいたいという動きがあり、津の有志が主催する講演会にまねかれた。その後、どうなったのかな。幸運を祈ります。

『太宰府天満宮の謎』90(祥伝社黄金文庫・02年110月)
右大臣の道真が政争にやぶれ、流謫地の太宰府で亡くなって天神になった──いたって簡単な事実だが、天満天神になってからの活躍、いいかえれば『菅原伝授手習鑑』の主人公の活躍が派手だから、書いているうちに、どっちがどっちなのか、われながら見分けがつかなくなる。太宰府の山にのぼって天を拝し、神におのれの無実を訴えたという伝承、その山がいつしか天拝山と呼ばれるにいたる、これまた伝承の重なりが面白い。太宰府へ行ってから歌舞伎座の通し狂言を観て、そのあとで執筆して、初校が出るまでのあいだに大阪で文楽の通しを観た──こういう順序であったと記憶するが、まちがっているかもしれない。

『北条早雲』91(学研M文庫・12年11月)
楽しんで戦争をしていた──早雲はこういう男だったらしい。勝てると見込みがついたら、闘う。勝てないとおもえば、さっさと退却して、恥ずかしいなんてかんがえない。

『すらすら読める「平家物語」』92(PHP文庫・02年12月)
各章の前に、「琵琶法師の述懐」を創作して、前書きとした。文章を読むよりは、法師の語りを聴く体裁をとってみたわけだ。分厚い文庫本になったが、編集担当の大久保龍也さんが原稿の枚数をそのまま了承してくれたので、大助かり。

『武蔵外伝 武芸者で候』93(NHK出版・03年2月)
観衆を感動させる剣技──この一点にしぼって武蔵の生涯を描いてみたつもり。感動させることの神秘でもある。「観せる」は「魅せる」なり、という連想から同時代人の出雲お国との対比にスペースを費やしたが、効果は如何であったか。編集担当の道川文夫さんのお骨折りで、菊地信義氏の装訂、豪華そのもの。

『坂本龍馬33年の生涯』94(三修社・03年9月)
汗牛充棟もただならぬというほど坂本龍馬関係の書物は増えてきている。いまさら、何を書けば新しい価値がつくのだろうと躊躇するところはあるが、いざ書きだしてみると、やはり龍馬はいい、ただものではない、その一点を強調するだけでも筆者の責任ははたせるはずだ。

『京の名墓探訪』95(淡交社・04年3月 名墓案内・小川善明 写真・渡辺 巌)
墓といえばコレ、という言い方をすると、ぼくのコレは化野の念仏寺の──追悼碑というべきだろうが──「吐夢地蔵」である。その「吐夢地蔵」の写真が表紙になったのは嬉しかった。

『清河八郎の明治維新』96(NHK出版・04年3月)
 64年か65年、某社から奈良本先生編集の『明治維新人物事典』という小型の書物が発行された。数十人の項目を執筆し、生まれてはじめて原稿料をいただいた。ひとりあて千二百字ほどの短い原稿だが、清河八郎の印象が強烈、かつ魅力に富んでいた。ことあるたびに「清河八郎々々々々」を連呼しているうち、チャンス到来とみえた。実現めざして突進、八郎の生地の庄内へ飛んで故郷の雰囲気に触れ、書きあげ、刊行にもちこんだ。採用していただいた道川文夫さんにご迷惑をかけたにちがいないが、迷惑をかけた謝罪よりは、実現に協力していただいた感謝を優先させたい。われながら図々しいとはおもうのですが──
庄内の清川のみなさまに大好評をもってむかえられ、講演会にまねかれたのが嬉しい。現地で味わったサクランボ「佐藤錦」の美味とともに、いつまでも忘れたくない悦び。

『京都の謎 東京遷都その後』97(祥伝社黄金文庫・04年7月)
琵琶湖疎水事業の章で、水車動力と水力発電動力の相違を分かりやすく記述するのに苦労した。水力を使って車を回転させるのはどちらもおなじ。理屈は簡単なだけに、かえって記述が困難になる。東京遷都の影響で京都が萎縮したのは事実だけれど、萎縮が新しい事業の展望をひらく結果になったのも事実なのだ。

『図解雑学 明治維新』98(ナツメ社・05年2月)
尊皇攘夷の思想、運動は如何なる事情のもとに発生したのか──維新史研究の常識の、そのまた常識に、ここ数年のあいだ、疑問を抱いていた。証明は完璧ではないが、「これだ!」といえる結論にたどりついた。「これぞ真実!」と叫んでまわるつもりはないが、ひとりでニヤニヤするには充分。

『おぼえておきたい京の名せりふ』99(京都新聞出版センター・05年3月)
大和田建樹『青葉の笛』の二番の第一節「更くる夜半に門を敲き──」を柱にした書物をつくろうという永年の念願がようやく実現した。小学校三年生のころにおぼえ、いつも口ずさんでいた唱歌。十数年まえに、「更くる夜半に門が敲かれた」邸の跡がじつは烏丸松原の俊成社と新玉津島神社なのだとわかったときの、足がふるえる驚愕。「更くる夜半に──」については何度も短い文章を書いてきたが、まとまった文章を書くのはこれで終りになるだろう。99冊めの『おぼえておきたい京の名せりふ』によってぼくの人生の感傷表現の使命──というものがあるなら──の半分は終わったことになる。

『平家の棟梁 平清盛』百(淡交社・05年7月)
青墓傀儡の乙前の向う側にいる男──ぼくにとって、これまで、平清盛とはそういう存在だった。清盛の生涯を書くというくわだては壮大である。面白くないはずはないが、乙前を脇に除けて書けるかどうか、どういう点で清盛と接触するのか──ああでもない、こうでもないと頭をひねっているうち、突如としてひらめいた、奈良を焼いたときの快感を共有する、そうすれば清盛と一体化できるはずだ、と。
75冊めの『熊野三山 七つの謎』のあと、ぼくの内心と周囲で「いつか、そのうち、百冊」という数字がうごきだした。刺激、誘導の小道具として「百冊」という言葉が生命力をもってきた。それ自体には何の意味もない「百」だけれども、あしかけ八年、たっぷりつきあってきました。「百」よ、ありがとう!
           (☆のしるしは奈良本辰也先生との共著です)

101
『風狂のひと 辻潤』(人文書館・06年7月)
大学では幸徳秋水、大学院では大杉栄を書いた。著述業をはじめてまもなく、辻潤とマキノ省三を書いて出せれば不満のない人生を終われると意識するようになった。酒場で「辻潤!」「マキノ省三!」と叫びながら二十年ほどの時間がすぎ、叫びが道川文夫さんのお耳にとどいて、ついにチャンスがやってきた。

102
『新・京都の謎』(PHP文庫・08年5月)
祥伝社文庫版「京都の謎」シリーズがあるので、こちらには「新」の冠をつけた。京都の歴史の、どんな些細なテーマでも全国区のものとしてひろがる。だからテーマには際限がない。

103
『オイッチニーのサン 「日本映画の父」マキノ省三物語』(PHP研究所・08
年10月)
「マキノ省三!」の叫びが京都新聞の編集部にとどき、一年間連載の幸運にめぐまれ、連載が終わってすぐにPHP研究所の大久保龍也さんの決断によって単行本になった。二大願望実現。

104
『京都 魅惑の町名』(PHP研究所・09年7月)
いちばん素晴らしい町名は京都市右京区の「名古曾町」だと気づいたのが十年ほどまえ。京都の町名をテーマに一冊が書ける予感にめぐまれ、楽しんで書いた。

105
『新編 氷川清話』(PHP研究所・09年11月)
はじめは「現代語訳」とのご注文だったが、氷川清話のもともとが現代語だから現代語訳は不可能、無意味である。「読みやすいように」を優先目標として編集した。

106
『原色再現 日本史の名場面』(新人物往来社・10年1月) 
明治神宮の聖徳記 念絵画館などに所蔵されている歴史絵にぼくが解説を書いた。六歳のころ、父といっしょに絵画館で観た、ぼんやりした記憶がある。

107
『奈良1300年の謎』(祥伝社黄金文庫・10年2月)
『平家物語』では実在感希薄の悪七兵衛景清が身近になった。刊行後まもなく、ベルナール・ビュッフェの「牢破景清」の絵が歌舞伎座に掲揚されていると知り、新築の歌舞伎座では外されてしまうだろうとおもったので、
観にいった。ビュッフェの「景清」が目当て、お芝居は二のつぎ。編集担当の吉田浩行さんは川越高校の後輩、嬉しい奇遇にめぐまれた。

108
『戦国政略結婚史』(洋泉社歴史新書・10年12月)
アレッサンドロ・マンゾーニ『いいなづけ』(平川祐弘訳)を読んで、結婚の重大なことに、なんとも遅まきながら、気づいた。まとまったものを書きたいなとかんがえてまもなく、チャンス到来。ただし、これは、人間関係があまりにも多岐、かつ複雑をきわめ、まちがえないようにと気をつければつけるほど、とりちがえ、まちがいの連続。

109
『うそだったのか 日本史』 新人物往来社 (2011・6・20)
歴史の逸話を有名無名おりまぜて楽しんでいただこうといった企画。

110
『サムライ・ガール 新島八重』 祥伝社 黄金文庫 (2012・12・20)
新島襄のことは何度か短文を書いたことはあるが、襄の夫人の名も知らない、生涯のあらましも知らなかった。NHKが大河ドラマにするのをきいて、これは是非とも一冊書きたいなと決意、会津に印象取材、黄金文庫の吉田さんにお願いして刊行にこぎつけた。ぼくとしては珍しいやりかた。